さて、今日は昨日の日記で予告していた通り、
亡き祖父母の家の、ぼーぼーの畑を草刈りして考えたことを書いていこうかな。
この日も畑に向かったので、その時の写真を載せながら。
おっと、その前に、畑に向かう途中で出会ったかわいい子をご紹介!
にゃー。
すごいかわいいのに、どこかおっさんみを感じさせる猫ちゃんを発見。
ほんと、すごいかわいいのに、めっちゃ渋い顔でみゃーみゃー鳴いてた。
思わず笑ってしまう。
和むなぁ。
そんなことをしていたら、畑に到着。
昨日みんなで頑張ったので、今日は昨日の刈り残しを片付けるぐらいでよかった。
いやぁ、頑張ったなぁ。
すん
と、不意に草の香りが湧き立つ。
まだ青いけれど、刈りたての頃より枯れ草に近づいた香り。
生から死へと変化していく香り。
繁茂から、朽ち果てていく香りへ。
そうだった。
わたしは、この草たちをこの手で殺したのだから。
*
草刈りは、殺戮だ。
そう思う。
鉄と人力の暴力をもって、瑞々しい命を蹂躙していく。
金属に負けて、草たちは緑色の血を流す。
草の匂いがむっと湧く。
これは口のない植物の叫びだろうか。
草を刈ることで、数多の生き物たちの安らぎの巣をも破壊していく。
ばった、ばった。
ばった、ばった。
錆びた鎌でわたしは草どもを叩き切っていく。
鎌を振るうたびに、鉄臭い。
それは、錆びた鉄の臭いだろうか、それとも…。
わたしの汗と草の汁が混じりあっていく。
汗と汁って、線一本しか違わないんだね。
初めて知ったよ。
わたしは畑と一体になっていく。
あれ、わたしが断ち切っているのは、、、。
それでもわたしは草どもを暴力でねじ伏せていく。
支配者だ。
(本当は人間など、自然に敵わず、飲み込まれるしかない運命なのに)
人間として、人間として。
わたしは草を断ち切っていく。
わたしの後ろには死体の山。
わたしは死体を踏みながら、刈り取っていくのだ。
人間として。
*
この時のことを詩にしました。
題名は「叢の血」。
Instagramでわたしがこっそり応援している川崎継子さんからご縁があって、
群馬県前橋市で行われた「前橋ポエトリーフェスティバル2022」の
「『らいふ(命・生涯)』の詩と写真 街なか展覧会」に詩を寄せさせていただくことになり、
それが決まった日の夜中に一気に書き上げたのでした。
このイベントに詩を寄せさせていただいたことについては、また別記事で語るとして、
その詩をここにも載せておきます。
わたしの詩に、新井隆人さんが素敵なお写真をつけてくださいました。
そちらも併せてお楽しみください。
*
草刈りは殺戮だと感じたことや、この詩を伯母に話すと、
伯母は自身の体験から、すごく共感してくれた。
伯母は、家の裏の土手を草刈機で刈ることがあるのだけれど、その時に、
草むらに蛙が隠れていたことに気が付かず、草刈機で蛙の脚を吹き飛ばしてしまったのだという。
脚のない蛙が生き延びる術はほとんどないだろう。
伯母は、ショックを受け、自分がしている草刈りという行為の暴力性を実感したという。
だから、わたしが畑の草刈りをして感じたことに共感してくれたのだ。
それでも、わたしたちは草刈りをせずにはいられない。
草刈りをしないと、わたしたちちっぽけな存在など、あっという間に草の海に飲まれてしまう。
人間としての生活圏を失ってしまう。
大袈裟かもしれないけれど、本当にそうなのだ。
そのくらい人間の生活というものは、脆いものなのだ。
わたしたちは、草を刈る。
自分たちの身を守るために。
闘う。
闘っている。
自分のその手と、血の臭いがする鉄を手に、今日も我々は草の血を流している。
むじゅん
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