【2021年4月21日】叢の血

むじゅんについて

さて、今日は昨日の日記で予告していた通り、

亡き祖父母の家の、ぼーぼーの畑を草刈りして考えたことを書いていこうかな。

この日も畑に向かったので、その時の写真を載せながら。

おっと、その前に、畑に向かう途中で出会ったかわいい子をご紹介!

クリーム色の猫の写真

にゃー。

すごいかわいいのに、どこかおっさんみを感じさせる猫ちゃんを発見。

ほんと、すごいかわいいのに、めっちゃ渋い顔でみゃーみゃー鳴いてた。

思わず笑ってしまう。

和むなぁ。

そんなことをしていたら、畑に到着。

草刈り後の畑の写真

昨日みんなで頑張ったので、今日は昨日の刈り残しを片付けるぐらいでよかった。

いやぁ、頑張ったなぁ。

すん

と、不意に草の香りが湧き立つ。

まだ青いけれど、刈りたての頃より枯れ草に近づいた香り。

生から死へと変化していく香り。

繁茂から、朽ち果てていく香りへ。

そうだった。

わたしは、この草たちをこの手で殺したのだから。

草刈りは、殺戮だ。

そう思う。

鉄と人力の暴力をもって、瑞々しい命を蹂躙していく。

金属に負けて、草たちは緑色の血を流す。

草の匂いがむっと湧く。

これは口のない植物の叫びだろうか。

草を刈ることで、数多の生き物たちの安らぎの巣をも破壊していく。

ばった、ばった。

ばった、ばった。

錆びた鎌でわたしは草どもを叩き切っていく。

鎌を振るうたびに、鉄臭い。

それは、錆びた鉄の臭いだろうか、それとも…。

畑に植えられた柑橘の木の写真

わたしの汗と草の汁が混じりあっていく。

汗と汁って、線一本しか違わないんだね。

初めて知ったよ。

わたしは畑と一体になっていく。

あれ、わたしが断ち切っているのは、、、。

それでもわたしは草どもを暴力でねじ伏せていく。

支配者だ。

(本当は人間など、自然に敵わず、飲み込まれるしかない運命なのに)

人間として、人間として。

わたしは草を断ち切っていく。

わたしの後ろには死体の山。

わたしは死体を踏みながら、刈り取っていくのだ。

人間として。

この時のことを詩にしました。

題名は「叢の血」。

Instagramでわたしがこっそり応援している川崎継子さんからご縁があって、

群馬県前橋市で行われた「前橋ポエトリーフェスティバル2022」の

「『らいふ(命・生涯)』の詩と写真 街なか展覧会」に詩を寄せさせていただくことになり、

それが決まった日の夜中に一気に書き上げたのでした。

このイベントに詩を寄せさせていただいたことについては、また別記事で語るとして、

その詩をここにも載せておきます。

わたしの詩に、新井隆人さんが素敵なお写真をつけてくださいました。

そちらも併せてお楽しみください。

むじゅんの詩「叢の血」の写真

草刈りは殺戮だと感じたことや、この詩を伯母に話すと、

伯母は自身の体験から、すごく共感してくれた。

伯母は、家の裏の土手を草刈機で刈ることがあるのだけれど、その時に、

草むらに蛙が隠れていたことに気が付かず、草刈機で蛙の脚を吹き飛ばしてしまったのだという。

脚のない蛙が生き延びる術はほとんどないだろう。

伯母は、ショックを受け、自分がしている草刈りという行為の暴力性を実感したという。

だから、わたしが畑の草刈りをして感じたことに共感してくれたのだ。

それでも、わたしたちは草刈りをせずにはいられない。

草刈りをしないと、わたしたちちっぽけな存在など、あっという間に草の海に飲まれてしまう。

人間としての生活圏を失ってしまう。

大袈裟かもしれないけれど、本当にそうなのだ。

そのくらい人間の生活というものは、脆いものなのだ。

わたしたちは、草を刈る。

自分たちの身を守るために。

闘う。

闘っている。

自分のその手と、血の臭いがする鉄を手に、今日も我々は草の血を流している。

むじゅん

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