わたしが食べ物を、野菜を育て始めたのは、2021年9月7日。
まだ残暑厳しい頃だった。
わたしは不安だった。
なぜなら、自分に野菜が育てられるとは到底思えなかったからだった。
以前、憧れてハーブを育てたが、枯らしてしまったことがある。
かわいいムスクマロウ、キャットニップ、ステビアたちを。
言い訳をすると、わたしは体調を常に崩しているような人間で、自分を生かすのに精いっぱいな余り、次第に世話をすることができなくなっていたのだ。
…本当のことだが、実に愚かしい言い訳である。
わたしは、間違いなくハーブたちを殺したから。
正直に白状すると、自分のことだけでも生かすのが大変なのに、他の命を育む資格などわたしにはないのだと、本気で思っていた。
でも、わたしは、新たに命を育むことに決めた。
その命は、じゃがいも。
わたしは、“食い物”を作る必要があった。
わたしのような弱い人間は、お金を稼ぐ能力に乏しく、“食っていけない”からだ。
だから、食っていくために“食い物”自体を作ってしまおうと思った。
詳しいいきさつは、これらの記事に書いてあるので、是非。
わたしは、必死だったのだ。
他の命を育てること、ましてや野菜を育てるなんて、難しくてできそうにないと思ったけれど、意を決して始めることにした。
わたしは祖母と母の助けを借りることにした。
祖母は、ずっと畑で野菜を作り続けていて、畑の使っていない一画を貸してくれる上に、わたしの初めての野菜作りの先生になってくれた。
母は、不安なわたしと一緒に野菜を作ってくれることになった。
「ずっと野菜を作ってみたかったんだけど、なんか踏ん切りがつかなかったんだよね。むじゅんちゃん(ここには筆者の本名)が野菜作りたいって言ってくれたから、いいきっかけになった!」
と言ってくれたので、救われた。
わたしは、まだ熱気盛んな太陽の下で、紫外線防止効果の付いたパーカーと長ズボン、農家の女性たちがよく身に着けているような、首周りにも覆いの付いた帽子を被って、いざ畑に立った。
雑草が繁茂することを防ぐための黒いビニールシートがはがされ、畑の土と相まみえる。
晴れが続いたから、畑の土はパリパリに乾いていたけれど、シートの下はほんの少しだけ湿っていた。
祖母のお家から持ってきた鍬を手にする。
重たい。
当たり前だが、金物の付いた先端だけ重たいので、持つときに案外バランスが難しく、手がブレてしまう。
土を耕すため、祖母の教えに従って鍬をふるう。
次第に額には汗が、腕と腰には鈍い痺れが襲い来る。
先ほども述べたが、鍬はバランスが難しくて、手元が安定しない。
手元が安定しないから、なかなか深く土を耕せない。
わたしと母が苦戦する中、祖母は軽快なリズムで土を耕していく。
鍬を土にさした後、鍬についた土がなかなか取れないのがわたしの悩みだったが、祖母がやるとさらさらと土が取れる。
祖母の生きる力を目の当たりにした。
この人は、幼い中で戦時中を生き抜いた人だ。
昔は食糧難のため、さつまいもをよく育てていたという。
その手つきは美しく、わたしはとてもシンプルな尊敬の念を抱いた。
やっと一帯を耕し終わったら、次は畝作りだ。
溝を作り、その両脇に土を盛って畝を作る。
これが結構つらい。
土は重たい。
鍬で土を持ち上げると、腕には鍬と土の重みが乗っかる。
少し土を上げては、たまらず小休憩をとった。
やっとのことで畝を作ると、ようやく種芋を植える時が来た。
大切に、ひとつひとつの種芋を置いていく。
わたしは、土は種にとってのおふとんだと思った。
わたしたちの手でふかふかになったおふとんに、種芋赤ちゃんを寝かせていく。
少しの肥料も一緒に。
終わったら土を被せる。
感慨深い。
どうか、健やかに育ってほしいと願いを込め、作業を終える。
貧弱なわたしにとってはかなり大変な作業であったことは間違いない。
けれど、不思議とあまり疲れを感じなかった。
まだじゃがいもたちが育ったわけでもないのになんだか誇らしかった。
今日はわたしが農業を始めた日。
生きるために踏み出した日。
むじゅん
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