【2024年10月27日】8月に、山口県立美術館「香月泰男のシベリア・シリーズ」を見に行ってきました。

むじゅんについて

更新頻度が低すぎて、今更感があるけれど、ずっと書きたかったことを。

今年の8月に、山口県立美術館で開催された「香月泰男のシベリア・シリーズ」に行ってきた。


山口県民だし、山口県立美術館の展示は規模が小さいながらもおもしろいので、幼少期から何度も香月泰男の絵を見る機会はあった。

山口県立美術館の常設展に、彼の絵があるからだ。

でも、こんなにまとまって「シベリア・シリーズ」を見るのは、少なくともしっかり物事を考えるようになってからは初めてな気がする。


描かれるのは、戦争と、シベリア抑留の記憶。

香月の描く人の顔、手、身体…

メインビジュアルからもわかると思うけれど、強烈に訴えかけてくるそれらから、目が離せない。

絵との物理的、または時代や場所との距離をものともせずに、ぎゅうんとこの身に、心に迫ってくる。

本当に刺さるように迫ってくる。


絵を描くこと、そして家族と生活を愛した一人の男が、強制的に戦争に参加させられ、敗戦によって、どこにいくかも知らされぬまま連行されて、列車の中から見える太陽の動きで故郷とは真逆の方向に連れて行かれていると悟って絶望し、極寒の地で人間ではなく替えの効く単なる労働力Aとして酷使される。

次々に仲間が死んで、彼らを埋め、その顔をどうにかスケッチしたけれど、それも見つかって燃やされた。

圧倒的なシベリアの自然、そして恐ろしい労働の中で木を切る鋸に美しさを感じることもあった。

次の瞬間すら見えない日々を、日々を生きて、日本に帰ってきた。


彼の描く人々の顔は、切実さ、恐怖、哀願など、様々に感じられると思うけれど、どこか祈っている時の顔のようにも見えてしまった。

圧倒的な暴力と力の不均衡を前にした表情であり、また、シベリアの極寒と飢餓に表情が削ぎ落とされた顔であるかもしれない。

想像を絶すると言って簡単に考えることを放棄したくない。

けれど、この感覚をわかるのかと問われれば、やはり「想像を絶する」。

でも、だからこそ、絵を前にして、わたしは黙り込んだ。

色々な思いや感情、考えが駆け巡った。

ひたすら想像した。

それしかできないけれど、それがとても大切なことだと思っている。


戦争は、人を無差別に兵士にするけれど、本当は無差別なんかじゃない。

戦争を始める人たちは現場で戦わない。

乾いた砂地を銃を背負って匍匐前進することはないし、こうべを垂れて筋肉がはち切れそうになるまで荷袋を積み上げられて運搬させられることはないし、連行される途中で現地の人に私刑に処されることもない。

だんだんと温度を失ってゆく仲間を、かじかむ手で永久凍土を掘って埋めることもない。


香月泰男の絵を見ていると、「肉薄」という言葉が浮かんだ。

肉薄

身をもって敵地などに迫ること。「敵の本拠に—する」

競争などで、すぐ近くまで追い迫ること。「首位に—する」

鋭く問い詰めること。「議会が政府に—する」

言葉の意味としては直接関係はないかもしれない。

けれど、この言葉のもつ切実さが、自分と死にゆく者との違いはなんだろうと考え続けずにはいられなかったであろう香月の絵を見ていると、自然に浮かんできたのである。

永久凍土の中にある人や動物の骨と、おそらく香月自身を含めた生きる者との境界線が限りなく曖昧に感じられる絵が何枚もあった。

死んだものと生きるものの違いはなんだろう。

極限の飢餓でほとんど皮と骨ばかりになった手、身体を見て、けれどそのわずかな肉と体温、そして思いが生者であることの証であるように…。


これらの絵を見ているからこそ、特別にあたたかい色で描かれた「埋葬」という絵の祈りと悲しみが胸に迫ってくる。

どうか最後だけはあたたかい色で描いてあげたい。

シベリアの寒さを思うほど、胸がきゅっと締め付けられる。


すごい長い感想になってしまったけれど、見にいくことができて本当によかった。

これからも、たくさん考え、感じ、行動していきます。

それがたとえ小さなものでも、一歩ずつ、確実に。


むじゅん

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