2022年8月25日(木)
午後の光を受けた葉は柔らかく透き通り、 燻された黒き実は時を経た銅。
今日は母方の祖父の命日だ。
母方の祖父は、わたしがこの世に生を受けるずっと前に亡くなっていたから、
わたしは祖父の顔を知らない。
存在は知っているけれど、強い血縁があるはずだけれど、
わたしは、周囲の人の語る記憶を頼りに、祖父のことを想像することしかできない。
どこか遠い存在だ。
命日ということもあって、家族でお墓参りに出かける。
午後の陽光は灼熱で、寺の庭をじりじりと灼いている。
むわっとした熱気が、夏の最後の抵抗だとでもいうように、わたしたちを包む。
門をくぐって寺の中に入ると、いつものようにわたしは水を汲みに向かった。
墓にかける水を汲むのは、自然とわたしと妹の役目だ。
今日は妹がいなかったので、わたしは一人で水場へ向かった。
その道すがら、わたしは思わず立ち止まった。
美しい佇まいの蓮がたくさんあったからである。
なんと嫋やかな姿。
美しい色のコントラスト。
あまりの神々しさにうっとりとする。
蓮の神々しさというものについては、昔の人々も大いに感じていたことだろう。
蓮は古くから創造、多産、純潔などを象徴し、
エジプト神話の太陽神ラーや、ヒンドゥー教の太陽神スーリヤに関係している。
そして、仏教において、蓮は何重にも意味を持つ重要な植物だ。
蓮が育つような濁った水は、無知や輪廻転生を表し、
そこから伸びていく茎は、人間は卑しい本性を乗り越えられるという、仏教において核心のようなものを象徴している。
蕾は純潔の象徴とされているし、蕾が花開けば悟りを表すことになる。
芥川龍之介の例の名作にも、蓮の花は象徴的に出てくる。
古代蓮と呼ばれる蓮の話も有名だ。
2000年前のものとみられる蓮の種を植えたら、きちんと芽吹いて育ったらしい。
時空を超えるほどの生命力。
だからだろうか。
ただの庭の植物とは思えない風格を感じる。
渋く枯れた種は、まるで2千年の時を経た銅細工のようだ。
夏の烈火のごとき日を透かした葉っぱは、神や仏のような存在が発する後光のようで、
思わず目を細める。
祖父は今どうしているだろうか。
あの世というものがあるのなら幸せに暮らしていてほしいし、
死と共に肉体も魂も消滅してしまうとしても、地球の循環に組み込まれた祖父を、
地球ごと大切にしたい。
わたしは、そんなことを思ったのち、家族の元へ向かった。
むじゅん
(タイトル、この間江戸川乱歩の「二銭銅貨」を読んだからか、語感が似た感じになってお気に入り)
参考文献
ミランダ・ブルース=ミッドフォード著,小林賴子,望月典子監訳,2010,『サイン・シンボル大図 鑑』,三省堂
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