【2026年01月29日】不可逆な心と体

Heart

昨晩から、ちょっとしたことで自身のネガティブスイッチが入り、強い焦燥感と恐れ、過緊張に悩まされていた。

そういう時はひどく孤独に感じて、自分の輪郭が希薄になっているように感じる。

自分はこの世界から浮いていて馴染まないくせに、それでいて誰にも見向きもされないで、ひどくひどく孤独だと思ってしまう。

この思考は見えないロックがかかっている状態に等しく、「そんなことはない!」と無理に思おうとしても、意固地にそこに居座り続ける。

身体中の血がさーっと青ざめて、何もかもどうでもよくなる。

なんで生きるために頑張らなくてはならないのか。

欲してもいないことのために頑張らなくてはいけないのか。

普段封印してなんとかしようとしている思いがこれでもかと前に出る。

まるでレイヤーを前面に移動させたかのように。

全てどうでもいいのに。

息をするのすらしんどくなって、そんな自分にまた凹む。

体の緊張はとれず、脳はフル稼働で自己否定を続ける。

なかなか寝付けないから、気を逸らすためにゲームをする。

なんとか眠りについた。


今日は数日前から計画していた、お気に入りのカフェに行くということを実行した。

その前に、毎日飲む薬を薬局に取りに行かないといけないから、処方箋を持ってそちらに向かって歩き出す。

カフェはご褒美。わたしはおいしいものを後に取っておくタイプ。


木曜の午後。薬局にはわたし以外にはお客は誰もいない。

処方箋を渡して待つ。

わたしは薬局の待合室に立ててある野菜の種の販売ラックをぼーっと見つめたり、持ってきた本を取り出して、この穏やかだけれど空虚な時間をやり過ごす。

薬剤師さんに呼ばれた。

今日担当だったのは、たまにしか見かけたことのない薬剤師さんだ。

薬の個数や金額などを確認しながら、「よくなりましたか?」と聞かれる。

わたしは口ごもりながら、「え、うーん、ああ、まあ、はい…」みたいなことを答える。

「前よりはよくなりました?」と重ねて聞かれたから、「あー、まあ、前よりは…はい」と返す。

更に「朝はしゃきっとと起きられますか?」と聞かれて、「うん、まあ、日によりますね…」と答えた。

薬剤師さんは職務を全うしただけなので何も悪くはないのだが、なんだかとても辛くなってしまった。

そりゃあ一番状況が悪かった頃よりはマシになっているけれども、わたしの実感としてはわたしの心は壊れたままだ。

感覚として、明るく普通の顔を表でできる時間は増えたけれど、その表皮の内は未だにじゅくじゅくの傷だらけと言う感じ。

色んな慢性的不調を抱えてもう10年が経つけれどこんな状況なんだなと思うと辛い。

本当に少しずつ、色んな人の力を借りて物事の捉え方は変わってきて、更に近年は自分を癒す術を学んで実践してきたから、明らかに以前よりマシにはなった。

だけど。

だけど、こんなにも心の傷が根強いなんて。

そして、わたしは眠りに苦手意識がある。

寝付けないなと思っていてやっと寝付けたら寝過ぎたり、逆にそんなに寝れていないのに早く目が覚めてしまったり。

大抵悪夢を見るし。

時に「なんで人は眠らないといけないの?」と思って辛くなってしまうことがある。

たまに、他者からの「よくなった?」という言葉に圧を感じてしまうことがある。

もちろんその言葉は心配などからかけられている場合がほとんどだけど、自身の感覚に忠実に「いや、今もなかなかキツくてね…」と答えた時に「え、でも前よりはよくなったんだよね?」みたいに返されることがあって、そういう時、今のわたしの苦しみを認知してもらえなかった気持ちになって、すごく悲しくなる。

だから、「あ、うん、まあ前よりはマシになったかなー前よりはねあはは」と誤魔化してしまうことが多い。

それでその場は収まっても、自分の中の小さな自分が、まるで無視をされたようにひどく寂しい気持ちになっていることに気がついて罪悪を感じる。

「死にたい」と決死の打ち明けをして、「そんなこと言わないで」と言われて口を塞がれてしまった人は少なくないのではないだろうか。

わたしは10年前のドン底の時にそういうことがあって、あまり人に本心を表現できなくなってしまった。

ただ、自分が感じている気持ちが今ここにあると、認めてもらえるだけでよかったのに(ここの“認める”は、肯定という意味ではない。ただ、あることを認めてもらうこと、なかったことにされないことが大事)。

今はもうしなくなったけど、大学生の時はよくNHKのハートネットの掲示板を夜中にベッドの中で見て、自分が飲み込んだ思いと同じ思いを吐き出している人の存在を確認して勝手に救われていた。その時だけは、一人ではないと思えた。自分の気持ちを無かったことにしなくて済んだ。その時だけは泣くことができた。

わたしは「元気そう」と思われることが多い。

それはそう振る舞っているからだ。

でも、それが正しいのかどうかはわからない。

本当の傷ついている自分と表の自分との乖離が辛い時がある。

でも、だからといって、病んでいる自分を表出したいわけではない。

というかそれが怖くてできない。

今だって、誰かからの評価を恐れて、自分のブログという城に引きこもってこのことを書いている。

病んでいる自分を表出した時、誰かを不快にさせたり、傷つけるのではないかと怖い。

メンヘラ乙と言われるのも嫌だ。

だけどこの気持ちをなかったことにはできないと、葛藤している。

だから、自分のブログという非常に限定的な場で、吐き出している。


薬局を後にして、ようやくカフェに向かう。

お庭に紅梅の花が咲いていて、もうそんな時期なのかと驚く。

お店に入ると、店員さんがわたしのことを覚えてくれていて、「あ!お久しぶりです!」と声をかけてくれた。

存在を認知してもらえているうれしさ。自身の輪郭の感覚が少し形を持つ。

他にお客さんは誰もいない。

自分だけの贅沢な空間で、ゆっくりとした動作で席に着く。

そのカフェにはたくさん本が置いてあって自由に読むことができるのだが、自分のすぐそばに、藤岡拓太郎さんの『藤岡拓太郎作品集 夏がとまらない』が置いてあってにやける。

なぜならわたしも藤岡拓太郎さんの本を持っているからだ。

今はもうない広島のリンゴ堂で買った『大丈夫マン 藤岡拓太郎作品集』。

ちなみにお店に並んでいたのがサイン本だったので、意図せずサイン本を所持している。

注文をしてから、待つ間にぱらぱらする。

藤岡さんは日常の中にいるなんか変な人(憎めないけどちょっと憎みたくなる)を描くのが抜群に上手い人だ。

絶妙に嫌だしシュールなシチュエーションなんだけど、彼らはただただ強烈にそこに存在する。

ええ…と引いてる自分とくすくす笑ってしまう自分がいる。

絶妙な塩梅。

しばらくぱらぱらくすくすしていたら、注文したチョコレートパウンドケーキとロイヤルミルクティーが運ばれてきた。

胸がきゅんとして、ワクワクする。

ようやく少し気分の段階が少し上がった気がした。

チョコレートパウンドケーキは洋酒が効いていて、アイスクリームとクリームも相まってとってもおいしい。添えられたいちごのアイドル感も素晴らしい。

ロイヤルミルクティーは、ミルクがふわふわとして口当たりが良く、コクがあってとってもおいしかった。

それらを楽しみながら、持ってきた本を開く。

大好きな『ユリイカ』の、「特集*宮崎夏次系」。

わたしはまだまだ宮崎夏次系超初心者であまり作品を読めておらず、全く詳しくないのだが、以前『SFマガジン』でやくしまるえつこさんが特集された際に寄稿された「ロンリープラネット」という漫画があまりにも、それはもうあまりにも良くて、一気に恋してしまったのだ。

その後しばらくして、最近『宮崎夏次系 CHRONICLE of DREAMS』を買い、ついこないだの12月に『ユリイカ』で宮崎夏次系特集がされていると知り、本屋さんに買いに出かけた。

好きな人がまるまる本一冊に特集されているのはとてもうれしい。

ようやく少し気持ちが落ち着いてほっとしてきた。

そして、家に帰ったらこのブログを書こうと思った。


つくづく、傷とは不可逆なものだと思い知る。

一度傷を負えば、修復はできても何らかの跡がわたしたちの設計図に刻まれて、跡を再現し続ける。

もう何もかもを忘れてしまいたいのに忘れられない。

わたしの右手の小指は中学の体育の授業中に負った突き指の影響で歪んでいるし、左手の人差し指には火傷の跡がある。

修復できればまだいいけれど、欠損してしまえばそうもいかない。

それは心も同じで、見えないから厄介だけれど、傷は設計図に刻まれて再現し続けられ、欠損したものは元に戻らない。

わたしはきっと、あまりに深い傷を負い、心の一部を欠損してしまったのだろう。

中学を卒業する時期、生まれて初めてのディズニーランドに行った。

目に映るもの全てが輝いて見えて、うれしくて、涙が出た。

この頃も深い傷は多かったけれど、取り返しがつかないほどではなかった。

高校最後の年あたりに、再びディズニーランドに行った。

この時はかなりメンタルの状態が悪かった。

楽しかった。閉塞していた日常から抜け出して、ディズニーランドで遊ぶのは。

だけど、決定的に前回とは自分の反応が違うのがわかった。

なんだか現実感がないというか、現実と自分の間にビニールの隔離幕が隔たっているかのようで、感動したいのに心が動かなかった。

前回のディズニーランドの時に天候の関係で見られなかったエレクトリカルパレードを初めて見た時、あんなに楽しみにしていたのに、自分の心があまりにも無表情なので驚いてしまった。

自分は感じる心を失ってしまったのかと、ひどく悲しくなった。

今はその時よりは感情も感動も感じられるようになっている。

だけど、欠損レベルの心の傷を負う以前とはもう違うのだと、それだけははっきりとわかってしまう。

よく、「鬱になった人はそれだけ考えが深くなる」みたいなポジティブに転換する考え方を聞くし、そういう部分もあるとは思うけれど、でも、辛いもんは辛いんだよね。

そりゃあ経験しないで済むんならこんな思いしたくなかったさ。


最近、めっちゃ今更ながらVtuberさんにハマっている。

すごく元気をいただいている。

そして、すごく素敵だなと思う。

これは、きっとわたしが自身の肉体への帰属意識が低いことにも起因していて。

わたしが好きなミュージシャンやアーティストさんもその傾向が強い人が多いみたいだったので、わたしは自然とそういう人に惹かれるのかもしれない。

自分の肉体という、生きている限り分離不可なものを、Vtuberさんは画面上ではあるけれど一度分離し、アバターという肉体を再獲得して他者から認識される。

バーチャルの体を手に入れることを“受肉”と言ったりするよね。バ美肉とかね。

もちろん、自分の肉体の動きを反映させるのだから(特に3D)、完全に自分の体や身体感覚、空間的なこの世界との繋がりを分離できるわけではないけれど。

わたしはVtuberさんを見た時、文字にすると相反するような思いがして興味深かった。

バーチャルの肉体しか視認できない状態だからこそ、その人の魂の形そのものが純粋に際立って見える気がするなという思いと、想像しかできないその人のリアルな心身が愛しいな、大切だなという思いだ。

ちょっと思考するのが疲れてきたのであんまり詰めないけれど、そこには肉体というものに対する色んな方向性の思いが発生していて、すごくおもしろい。

“ない”からこそいいなと思うことも、“ある”からこそいいなと思うことも同時に存在している。

「くしゃみ助かる」とかもね。

millnaさんもVtuber黎明期に独学でセルフ受肉していたよなぁ。

本当にすごい。

あの辺りの動画もすごく好きで、たまに観返している。

いつかわたしも受肉してみちゃったりして。

まぁ、Vtuberじゃなくても、人は何かしらアバターやキャラクターに自分を当てがって生活していたりするものだけどね。

わたしのむじゅんだってそうだし。

わたしを模したミニキャラクターのミニむじゅんちゃんだって、ある意味自身の肉体からの解放のひとつだ。

本格的に疲れてきたので、この長くて暗い文章をそろそろ終わりにしようと思います。

ここまで読んでくれた人いるのかな。

いるのなら本当にありがとう。

あなたの素敵な日々を祈っているよ。

一緒に頑張ろうね。


むじゅん

むじゅん
「文化的スローライフ」模索者

自然を愛し、魂を通わせる音楽家。
音楽のほかにも、文章、詩、絵、朗読、映像、そして農業など、様々な表現を試みる。
少しずつ自分で食べ物を作りながら、心と体が弱いわたしたちのための「文化的スローライフ」を模索している。

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