【2024年10月30日】命、逞しき。

むじゅんについて

ここ一週間は、週末のZINE展、「ZINE.room」のための準備に追われていました。

次々にやることが出てきたから、目が回りそう。

でも、きっといいイベントになるはず。

パフォーマンスはもちろん、今回もZINEを販売させていただくので、そちらも楽しみにしていてくださいね。


今日も過去シリーズ。

これはまだ暑かった9月の畑。

夏+αが暑すぎてほとんど畑仕事ができなかったので、草がすごいことになっている。

草もすごいけれど、一等すごいのがキバナコスモス(?)。


花が綺麗だし、毎年勝手に勢いよく生えてくれるので、草を抑えるのにいい…のだが、これはあまりに生えすぎだー!!!

通路が潰れている…

この暑さなのになんという生命力。


ということで、せめて通路は空けなければということで、間引くことにする。

いや、間引くって量じゃないけどね。

茎が太い太い。

木質化の一歩手前くらいの繊維の硬さだ。

だからポキっと折れないし、根が深いから抜くのも大変。

そもそもコスモス自体の背がすごく高くて枝が伸び放題なので、かき分けるようにして茎を掴む。

作業していると少しずつコツがわかってくる。

鎌で一旦コスモスの茎を折ってから、茎を掴みやすくした状態で抜くと、やりやすい。

わっさわっさ。

すごい量。

まるで巨人の花束だ。

シンプルに花が綺麗だし、量もすごいから、お花屋さんに売りに行こうかしら。

なーんてね。

(この畑に植っていて、季節になるとたくさん花を咲かせる小手毬の枝が、都会の花屋さんで一本1000円で売っていてすごいびっくりしたことがある)


コスモスをなんとか減らしたら、今度はたっぷり生えた草たちを鎌で刈っていく。

暑いし、蚊がやばすぎて、羽音のオーケストラ状態。

何気に蚊の猛攻が一番きついかも…。


草を刈っていて、やっぱり、農業って人間の勝手な行為だなと思う。

放っておけば自然のシステムに組み込まれていく土を掘っくり返し、勝手に命の選別をし、時にそれを殺す(キバナコスモスなど、見た目の良い植物は見逃しがちという選り好みまでする)。

暴力だし、殺戮。

全然ふんわりしていない。


そうなんだよな、勝手なんだよな、殺戮なんだよなと思いながら、鎌を振るう。

でも、こんなちっぽけなわたしに負けず、草たちは元気だ。

わたしなんかに刈られた程度じゃその勢いになんの傷もつけられないというように。

それが頼もしいやら、大変やら。


ざっざっざっ、ざっく。

厄介な茅などイネ科の植物を刈る。

一度生えると根ごと抜くのはほぼ不可能に近い、強靭な生命体。

よわっちいわたしは、鎌の力を借りなければ根本から刈ることもできない。

羨ましさすら覚える、その命のちから。

数日もしないうちに、刈ったところからまた新たに葉を伸ばしてゆくのだろう。


わたしたちは勝手に自分たちが食べられる野菜を育てて、草たちは勝手にたくましく生えてくる。

こおろぎやなめくじ、みみず、かえる、芋虫なんかも、勝手にやってくる。

生きてるなって思う。

わたしも生きてるんだなって。


この辺のことを考えると、わたしの本棚にもある東千茅さんの『人類堆肥化計画』を思い出す。

鋭い考察はもちろん、わかるー!ってところと全然共感しないわってところの両方あっておもしろい。


わたしはこの畑に白菜とほうれん草と大根をビーツを植えました。

特に白菜が想定外なくらい元気にすくすく育っていてくれてびっくり!

さらに畝を増やせたらいいねと、母や伯母と言っています。


草刈りは大変だけれど、刈った後に何も生えなくなってしまったら、そこは不毛の地ってことだものね。

刈らせてくれてありがとうまでは思わないかもしれないけれど、実はちょっと感謝してます(草刈りしていると瞑想状態になるし)。

草、生命、ありがとう。


むじゅん

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